戦争の記憶

私は1990年、東西ドイツ再統一の年に初めてドイツに来ました。
前年の1989年にベルリンの壁が崩壊し、共産圏だった東欧諸国に劇的な変化がもたらされた時期です。そして1991年には、これらの東欧圏に強大な力を持っていた旧ソ連も崩壊しました。
見市 知 2022.03.21
誰でも
ベルリンの東側に今も残る、社会主義時代の建築、テレビ塔と世界時計。

ベルリンの東側に今も残る、社会主義時代の建築、テレビ塔と世界時計。

しかし東欧諸国の体制が一夜にして変わりすべての問題が解決したわけではなく、これには続きがありました。あれから30年が経ちますがこの間、旧ソ連および東欧圏ではさまざまに不穏な出来事がありました。

2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻してから3週間が経過し、不穏な日々が続いています。

「ロシアとウクライナの戦争は、2014年にロシアがクリミアを併合した時からすでに始まっていた」と言われていますが、両国間にはそれ以前からの複雑な歴史的経緯が横たわっているのを改めて痛感します。

鉄のカーテンという言葉に象徴された、東西に分断されていた世界が大きく転換してから30年。

この間に、欧州の旧共産圏で起こった出来事が今回、いくつも思い出されました。

たとえば1991年に始まったユーゴスラビア紛争。

ユーゴスラビア社会主義共和国連邦の解体に伴って起こった紛争です。一つの国家の体を成していたユーゴスラビアがもともとは多民族国家で、異なる言語や宗教、文化や歴史的背景を持つ民族の集合体だったことから各民族が独立を主張し始め、それまで共存していた共同体の形が崩れました。

その問題を顕著に表したのが、分離独立国家の一つボスニア=ヘルツェゴビナで起こった紛争でした。イスラム教徒のモスレム人とローマ・カトリック教徒のクロアチア人、正教徒のセルビア人が暮らすこの国で、民族間の対立が起こり紛争に発展しました。

この国の首都はサラエヴォ。1984年には冬季オリンピックの開催地となり、ユーゴスラビアの中でも最も美しい都市と呼ばれた場所が内戦の舞台となりました。

この頃のことで思い出すのが、ブルガリア人の友人に「実家に帰るときに一緒に遊びに来ない?」と誘われたことです。

ベルリンからブルガリアまで陸路で安い長距離バスが運行していたのですが、これがユーゴスラビアを通過するルートでした。

ボスニア=ヘルツェゴビナを直に通らないとはいえ、紛争はまだ収まっていなかったので不安を覚えたのですが、ブルガリア人の友人は「大丈夫、危険地帯は通らないから」と慣れた様子でした。

ちなみに当時ユーゴスラビアはすでに5カ国以上の国家に分かれており、日本人の私はそのすべての国に通過ビザが必要でした(1990年代前半はまだ、チェコやハンガリー、ポーランドに行くのにも日本人はビザが必要でした)。1カ国につき5000円くらいだったと思いますが、それではどんなにバス代が安くてもビザ代を足すと結局飛行機代と同じになってしまうわけです。

そのため私にとって陸路でのブルガリア旅行は決して安くはなく、不安要因も大きかったため、そういった諸々の理由から実現しませんでした。

ブルガリアも正教徒の国なのですが、この友人は当時、ユーゴスラビア問題に関しては完全にセルビア人側に肩入れした政治的見解を持っていて、何かにつけて諸悪の根源はモスレム人だと言わんばかりでした。

後にコソボ紛争でセルビアがNATO軍に空爆されたときに、やはり同じ正教徒国家のギリシャでNATOに対する強い反発が起こったのを覚えています。

このようにいったん民族間の紛争が起こると、その国以外のところにも分断が広がっていくのだなというのを身近な人を通して知りました。

1994-1996年まで続いた旧ソ連内のチェチェン紛争も、強く記憶に残っている出来事です。

旧ソ連の崩壊を受けて次々と独立国家が誕生する中で、チェチェン共和国もソ連からの独立を求めましたが、ソ連側がこれを認めず軍事介入。独立派によるゲリラ戦との攻防になり、事態は泥沼化しました。

私は、1990~1991年にかけて1年間住んだ場所が、統一から間もない時期のベルリンの旧東ドイツ地域だったため、旧ソ連からの留学生と知り合う機会がたくさんありました。

日本人のような顔立ちをした女の子と大学の語学コースで知り合ったとき、彼女の出身国がキルギスだと聞いて、恥ずかしながら「え、それって国の名前なの?」と思った記憶があります。

ソ連はまだ存在していましたが、彼らは出身国を聞かれると必ず「キルギス」とか「ウクライナ」とか「カザフスタン」という答え方をしていました。

アゼルバイジャン出身の陽気な大学院生が学生寮にいて、いつもパーティーの時の盛り上げ役だったのですが、あるとき彼がイスラム教徒だというのを知り、ソ連の中にもイスラム教の文化圏があるというのを知ってびっくりしたのを覚えています。

たしかに地理的に見るとアゼルバイジャンはイランと国境を接しており、広大な共産圏を築いていたソ連という国が、実は文化的民族的に多様な人々が住む場所だったというのを知りました。

紛争が起こったチェチェンもイスラム教徒の住む地域でした。チェチェンという未知の場所で起こっている紛争のニュースを見るたびに、アゼルバイジャン人の陽気な彼のことを思い出しました。

それからずいぶん時間が経って2015年、内戦中のシリアをはじめとする中東、アフリカ諸国から大勢の難民が欧州を目指した難民危機のとき、私は難民の子どもたちにボランティアで勉強を教える、キリスト教系のNPOをドイツで取材する機会がありました。

取材に応じてくれた主催者はそのとき最近の出来事として、ユーゴスラビア紛争時にドイツに逃れ、10年以上ドイツで暮らしてきたセルビア人家族が、突然滞在許可を打ち切られて強制送還になったという話を怒りをにじませて話していました。

彼女はその家族とは深い付き合いで、子どもたちの勉強も見てあげた経緯があったのだそうです。

この頃、シリアやアフガニスタンからの難民を受け入れる代わりに、かつての紛争時に多くの人が難民としてドイツに逃れた旧ユーゴスラビア諸国を「安全な国」と認定して、彼らを帰国させるというドイツ連邦政府の方針発表がありました。

「もうすっかりドイツで生活基盤を築いて、上の子も職業訓練先が決まっていたのにですよ」

彼女は、その家族を支援するための活動をインターネット上で立ち上げていました。

戦争が生み出す殺戮と破壊、憎しみと分断、そして難民。

世界のどこかで戦争が起これば、自分がどこにいるとしても何かしらその余波を受けて生きているのだと感じました。

たとえそれが、自分の知らない国で起こっている出来事なのだとしても、自分に無関係の出来事でない。しかし自分が住んでいる欧州内で起こっている出来事は、私には共感しやすく、見えやすいことにも気づきました。しかしこれが中東やアフリカで起こっていることだとしたら、想像する力も共感する力も弱くなってしまう。だからこそ、その場所のことを知っている人の話をもっと聞きたいし、自分の鈍感さにも自覚的でありたいと思いました。

かつて国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子さんがあるインタビューの冒頭で「私たちはお互いのことが好きでも嫌いでも、この世界で共存していかなければなりません」と話していた言葉を思い出します。

ひとたび戦争が起これば、個人の存在など本当に小さく無価値なものであるかのように見えてしまう。しかし、一人でも多くの平和を願う人の祈りと行動が、必ず世界を変えられるはずだと私は信じたい。

20世紀に、あまりにも痛ましい戦争の歴史を経験した人類が、そこから何も学ばなかったはずはないと思いたいのです。

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