南ドイツの「キリスト受難劇」の村を訪ねて

ドイツ南部、オーストリア国境に近いアルプスの麓に伝説の村があります。
ここでは約400年前の1634年、黒死病と呼ばれたペストが猛威を振るった時に村人が総出でキリストの受難劇を演じ、それ以来ペストの死者が出なくなったという奇跡の経緯がありました。
この時以来、神への誓いとして10年に1回「キリスト受難劇(Passionsspiele)」が上演され続けてきました。
見市 知 2022.06.30
誰でも
壁面にキリスト受難劇の場面が描かれた、オーバーアマガウの伝統的な木彫り細工の店

壁面にキリスト受難劇の場面が描かれた、オーバーアマガウの伝統的な木彫り細工の店

木彫り細工とフレスコ画の村

美しいアルプスの山並みを背景にした、絵本のような村オーバーアマガウ(Oberammergau)。

人口約5400人のこの村は、古くから木彫り細工の手工業の村として知られています。

そして家々の壁面に描かれた美しいフレスコ画。多くの人が読み書きをすることができなかった時代に、目に見える形で描かれたキリスト像や聖書のさまざまな場面は、この地で長く受け継がれてきたキリスト教の信仰の歴史を物語っています。

街中の至るところには、木彫り職人の伝統を物語るこんな木彫り細工が

街中の至るところには、木彫り職人の伝統を物語るこんな木彫り細工が

人口5400人の村に、現役の木彫り職人は40人いるそうです

人口5400人の村に、現役の木彫り職人は40人いるそうです

この村で、400年の歴史を誇るキリスト受難劇の42回目の上演が予定されていたのは、おりしも世界中にコロナ禍が広がった2020年でした。

コロナ禍の猛威により、このイベントは2年間の延期を余儀なくされましたが、受難劇の歴史の中には、繰り返されてきたパンデミックの歴史が刻まれています。

新型コロナウイルスの100年前、1920年にはスペイン風邪の流行がありました。さらに第一次世界大戦で多くの人が負傷し命を落としたこのとき、キリスト受難劇は今回と同様に、2年の開催延期となったそうです。

キリスト教の長い歴史の中で人々の信仰のあり方、神と人との関係は変化してきました。ペストの時代から400年を経てコロナ禍に直面した私たちにとって、このキリスト受難劇はどのような意味を持っているのか?

イエス・キリスト役のフレデリック・マイエットさんにお話を聞くことができました。

受難劇が上演される、その名も受難劇劇場(Passions Theater)©️PassionsSpiele2022

受難劇が上演される、その名も受難劇劇場(Passions Theater)©️PassionsSpiele2022

「村人にとって演劇は日常生活の一部」

2022年の受難劇でイエス・キリスト役の一人(主要な役はダブルキャストで演じられている)に抜擢されたフレデリック・マイエットさんは1980年、オーバーアマガウの木彫り職人の家に生まれました。

「この村では、10年に1回の受難劇の他にも、毎夏村人総出でさまざまな演劇を上演する風習があるんです。私も子どもの時からそれに親しんで育ちました。だから、10年に1度のこのイベントも、日常生活の延長線上のようなものなんです」

マイエットさんはふだん、ミュンヘンの劇場でプレス担当の仕事をしています。

受難劇に出演するすべての村人がそうであるように、マイエットさんもイエス役を演じるためにこの期間、劇場の仕事の勤務時間を減らしています。大学生の場合だと、この期間休学するケースも珍しくないのだとか。

とはいえユネスコ無形文化遺産にも指定され、バイエルン州を挙げての伝統行事となっている名物イベントなので、10年に1回のこの特別事情に対する周囲の理解や認知度はかなり高いことが伺えます。

ちなみに受難劇の舞台に立つには「この村に生まれたこと」か「この村に20年以上住んでいること」が条件になります。

イエス役を演じたフレデリック・マイエットさん。今回で2回目の大役 ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

イエス役を演じたフレデリック・マイエットさん。今回で2回目の大役 ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

「人間イエスの弱さや葛藤を伝えたかった」

「イエス役に選ばれる条件ですか?演技力があって、外見がイエス・キリストのイメージに合っていることくらいではないかと思います。特別すぐれた模範的な人間である必要はありませんし、信仰も問われません。以前は受難劇の出演者は必ずカトリック教徒であることが条件でしたが、それも今日では関係なくなっています。私はカトリック教徒ですが、次回のイエス役はカトリック教徒以外から選ばれる可能性もあると思います」

大役を射止めた割には、マイエットさんの言葉は淡々としていました。

「自分からイエス役をやりたいという希望は出しませんでした。2000年には使徒ヨハネの役をもらっていますが、むしろ今度は、イスカリオテのユダの役もいいなと思っていたくらいです。ユダ役は、一番演技力のある演者がやる役とも言われています」

配役が決まりリハーサルが始まると、主要な役者たちは10日間イスラエルを訪れる機会を持つのだそうです。

聖地エルサレムを直に見て、イエス・キリストについて深く考察し、役作りを深めていきます。

「イエスは傑出した人物で、新しい思想をこの世にもたらした人だと思います。

『あなたの隣人を、自分を愛するように愛しなさい』という有名な言葉がありますね。もしすべての人がそれを実践できたならば、この世はもっとよい場所になるはずです」

受難劇の脚本と演出は時代に合わせて改編が加えられ、現在演出を務めるクリスチャン・シュトックル氏の元では、福音書の中でもイエスの人間的なエピソードが多いヨハネによる福音書を下敷きに、人間イエスの生身の姿がより強く描かれています。

「人間が持つ普通の喜怒哀楽や葛藤、肉体の限界や弱さをイエスも持っていたのだということを伝えたいのです」とマイエットさんは語っています。

受難劇冒頭の、イエス・キリストがエルサレムに入城する場面 ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

受難劇冒頭の、イエス・キリストがエルサレムに入城する場面 ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

「よきユダヤ人」と「悩めるユダ」

マイエットさんにとって特に思い入れの強いシーンは、十字架の死を前にしたゲッセマネの祈りの場面だといいます。

「この場面では、イエスが死の恐怖と戦いながらも信仰を失わず、自分を迫害するものに屈せず、自分の信じるところを曲げなかった。イエスという人物を知る上で象徴的な場面だと思います」

受難劇は、間に休憩を挟んで5時間半という長丁場。

今回舞台に立った村人の人数は子どもも合わせて1800人。村人全体の3人に1人という計算になります。

舞台に立つ村人たちの演技があまりにも自然で、「演劇を観た」というより「聖書の場面の再現を目撃した」という言い方が相応しいと思えるほどでした。

さらに舞台上にはロバや鳩、馬やラクダまで本物の動物たちが登場して、彼らも見事な役割を演じます。

舞台に登場する動物はみんな本物。鳩たちも大熱演でした ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

舞台に登場する動物はみんな本物。鳩たちも大熱演でした ©️Passionsspiele Oberammergau 2022

現代的な演出の特徴としては、ユダヤ人対イエス・キリストという対立の構図を回避していること。ユダヤ宗教人たちの間にも「よきユダヤ人」がおり、彼らがイエスを擁護する場面が聖書の実際の表記よりもやや多めに登場します。

そしてイエスを売ったイスカリオテのユダを完全な悪人としては描かず、イエスを信じ切ることができずに迷い、苦悩する姿が描かれているのも印象的です。

受難劇の最後は、イエスが十字架上で亡くなり姿を消した後、天使が弟子たちにその復活を告げますが、イエスは再び姿を現すことなく、舞台上に残された炎が暗闇の中で燃え続けるという場面で終わります。

©️Passionsspiele Oberammergau 2022

©️Passionsspiele Oberammergau 2022

イエスとは一体だれだったのか?

大工の子としてこの世に生を受け、真理と愛の言葉を人々に伝え、多くの人を救いながら、時代の権力者やユダヤ宗教者に受け入れられず、最後は十字架上で惨殺されたイエス・キリスト。

しかし彼の死後、その言葉と精神は世界中に広まり、特に欧米社会の精神的基盤にはキリスト教の思想が深く根差しています。

イエスの言葉、そしてキリスト受難劇は現代の私たちに一体どんな意味を持っているのか?

この問いかけに対して、マイエットさんはこのように答えてくれました。

「400年前、受難劇が始まるきっかけになったペストが蔓延した時、人々はこれが神の罰だと信じました。

今日では、私たちは人間が負うべき責任分担があると考えます。

私たちが今もこの受難劇を演じ続ける理由は、イエスの言葉にすべての答えが入っているからです。

戦争や貧困、病気…私たちが今も直面しているこれらの問題に対してイエスは何と言ったのか。

彼はユダヤ宗教人たちの間違った権威を批判し、神の愛を人々に説きました。

これは、信仰の有無や宗派の違いを超えて、すべての人が聞くべきメッセージなのです。

たぶんこれからの400年も、この受難劇は演じられ続けると思います」

(取材協力:ドイツ観光局、森本智子)

***

【キリスト受難劇に関する基本情報】

上演期間

2022年5月14日~10月2日(月曜日と水曜日は休演)

上演時間

(5月14日~8月14日)

1部 14:30-17:00

2部 20:00-22:30

(8月15日~10月2日)

1部 13:30-16:00

2部 19:00-21:30

<キリスト受難劇公式HP>

<ドイツ観光局公式HP>

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