クリスマスツリーを投げ捨てる
クリスマスシーズンの間、きらびやかに主役を務めていたツリーがあっけなく放り出されている様子には、毎年見慣れているとはいえ「シュールだな」と感銘を受けます。
ドイツ人にとってのクリスマスツリーとは何なのか?考えてみました。

年末年始の時期における力点が日本とドイツとでは異なっていて、日本ではお正月の重要度が最も高いのに対し、ドイツではクリスマスがハイライトという位置付けになっています。
この時期に組まれるイベントや日程、それに傾けられる人々のエネルギーなど、すべてがこのハイライトを中心に調整されているため、両方の国に関わって生きている者としては、しばしばこの力点のズレに翻弄される身となります。
まぁ結局、この時期にどっちの国にいるのかによって事情は変わってくるわけなのですが。
今回(2021~2022年にかけての年末年始)はコロナ禍の影響を受けて予定していた日本帰国を急遽キャンセルしたのと、本来ならば日本で参加するはずだった複数のクリスマス関連のイベントに、ドイツからオンライン参加するという事態が発生したため、心ならずもこの力点のズレに軽く翻弄される年末年始となりました。さらに近所に住む友人が育児ノイローゼ気味で調子を崩してしまい、急遽子守りを引き受けるという展開などもあり、柄にもなくいそがしく過ごしていました。
ここ数年、年末年始は日本で過ごすのが定番になっていたため、ドイツでクリスマスと新年を過ごすのは結構久しぶりでした。しかしコロナ禍で、私が住んでいる地域のクリスマスマーケットは全面中止となり、前年に続いて世の中がちょっとひっそりめなクリスマスシーズンではありました。
そしてクリスマスが過ぎるとドイツでは、もうお正月の3が日が終わったかのような気の抜けた感じになります。まだこれから年越しがあるのに!
12月31日、私は健康と安全を第一に早寝をしたため、カウントダウンも紅白歌合戦もなしの年越しとなり、お正月みの薄い新年を過ごしているうちに1月6日がやってきました。
1月6日、それは公現節と呼ばれるキリスト教の祝日で、赤ちゃんのイエス・キリストを東方の三人の博士たち(ドイツでは三賢王)が訪ねたことを記念する日です。この日をもってクリスマスは終わり、クリスマスツリーの片付けが始まります。この様子がちょっと見ものなわけです。
ドイツではクリスマスツリー用にモミやトウヒの生木を買い求める家庭が多いのですが、クリスマスが終わるとこれらの木は、飾り付けを取り除いて道端に投げ捨てられることになります。それを市の清掃局が回収してくれるという仕組みです。私は今、バイエルン州のアウクスブルクという町に住んでいますが、以前に住んでいたベルリンでもこのシステムは同じでした。

この話をTwitterで書いたら、同じバイエルン州のインゴルシュタットにお住まいの方が、「うちの市は収集場所が決まっていて、そこまで持って行かないといけないんです」と教えてくださいました。なので、道端にクリスマスツリーが投げ捨てられているという光景は、インゴルシュタットでは見られないのだそうです。
それにしても、いつ見てもなんだかシュールな光景です。

昨日まで、自宅のリビングの中心で輝いていたはずのクリスマスツリーが無惨に投げ捨てられるとは…
日本の場合だと、お正月が終わると松飾を1箇所に集めて焼くどんど焼きや左義長という風習がありますね。これは、松飾に歳神が宿るので、それを天に返してあげるという発想らしいです。
ものに何かが宿るという感覚は極めて日本的で、これはドイツに30年暮らしている私の中にも無意識にしみついていると感じる時があります。
例えば、何か愛着したものに思いが宿る、というような考え方も。
ドイツでは、プレゼントをきれいな包装紙に包んであげても、もらった人は結構無頓着にビリビリに破いて開けてしまう場合が多いのですが、私はいまだにこのやり方に慣れません。
クリスマスツリーを投げ捨てられるのも、これに通じる感覚なのかもしれないと思う時があります。
ある意味合理的で、包装紙はあくまでもプレゼント本体ではなくその包み、クリスマスツリーも役目が終わればゴミになる、ということなのですが。
古代ゲルマンには常緑樹信仰があったはずなのですが、ドイツ人にとって根っこのない植物や木は「死んだもの」と認識されるそうで、そもそもクリスマスツリーとして切り出される木に生命が宿っているとは考えないらしいです。そしてクリスマスツリーはあくまでもデコレーション。崇拝対象ではないわけではないわけですね。
キリスト教文化圏の考え方としては、日本のように「松飾りに神様が宿る」という考え方はシャーマニズム的に映るのかもしれません。
ところで欧米圏でも人気を博しているお片付けのカリスマ近藤麻理恵さんのメソッドの中に、愛用した服を捨てるときに手にとって「ありがとう」と言ってから捨てましょう、というのがありました。
これは意外に欧米人にも広く受け入れられているようです。
「神様が宿る」というとシャーマニズム的ですが、「思いが宿る」という発想は世界共通で理解できるものだからなのかもしれません。

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